2024/12/04

おでんの季節【介護日記】

17年ぶり一緒に住み始めてから半年、必ず父と一週間に一回は揉める。認知症の母と揉める事はないが、同じ屋根の下で住むと色々な事で父と衝突する。ウイークデイの朝晩の食事作りは父に任せているが、土日の夕飯はオレが作る。となれば、台所を舞台に色々言いたい事が見えてくる。

例えば包丁にしろ、道具にしろ同じものを使う。父は工事職人なので道具に気を使うのだが、こと食事作りに関しては男の料理を突き通す。要は作ったっきりで後片付けはほぼやらない。水切りカゴに置いたザルに材料片が残っているのはざら。フライパンは洗わない。こちらが使おうとすれば棚から油とコゲが残ったフライパンが出てくる。

「洗うのが面倒ならそのまま流しに置いて欲しい」と言っても通じない。ザルの件に関しては「料理中、置く場所が足らない」と言い出す。それらを含めて「洗います」と言ってもダメ。とにかく父は頑固な人だから。

「文句を言われるくらいなら一緒に住んでくれなくていい」と言い出し、「出ていけって事?」と問うとそうではないと言う。でも「自分の子に出ていけとは言えない」とそのまま黙ってしまった。

そんな揉め事のあったある夜。数日の寒さからそろそろおでんを食べたいなと思って食材を用意していた。ダンマリになった父を横目に台所で下ごしらえを始める。妻が作っていたのを見ていたし、ググればレシピは溢れている。とりあえず大根とじゃがいもを下茹で。

日高昆布を切り出してそれらと一緒に合わせておく。後は翌日、出汁類(中でもヤマサの昆布つゆは最強)を追加、ゆで卵に練り物、ソーセージ、鶏肉に牛すじと合わせて煮込む。より味が染み込むよう10数分加熱して放置。食べる直前に十分温めておき、加えてよく冷えた缶ビールを用意しておく。

揉めた父と缶ビールを交わし、おでんを食す。父は黙々と食べ、母は「美味しい」と喜んでいた。とりあえず停戦、まだまだ揉め事は絶えないと思うけど。

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2024/11/19

【介護対策】「リーベックス(Revex) 閉め忘れお知らせアラーム FA1」を使う

「リーベックス(Revex) 閉め忘れお知らせアラーム FA1」を使い始めた。

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両親と同居し始めてから気づいたが、冷蔵庫のドア閉め忘れが多い。冷蔵庫のドアは強制的に閉まるようになってはいるが、最後は半ドア状態のままで添え手が必要。冷蔵室ドアのアラームに気づき注意をする事しばしば。また冷蔵庫内蔵のアラーム音は小さい。「注意する」事自体がお互いにストレスになるため、まずこのお知らせアラームを1台買ってみた。

取付は簡単。ドア側にアラーム本体、冷蔵庫側へ本体に呼応するマグネットを取り付けるだけ。アラームは8種類あり、冷蔵庫以外の用途もある。ボロ家で狭いので、このアラームであれば居間にいる耳の遠い父でも音が聞こえる。認知症の母は輪をかけて耳が遠いので論外、ほとんど閉め忘れの犯人だったので。これで冷蔵庫への対応が済んだかに見えたのだが….

使っているのは冷蔵、野菜、冷凍室の3ドアの冷蔵庫。この夏の真っ只中に故障のため更新したもの。ただ冷凍庫は使い方が開扉から引き庫へ変わったせいか、閉め切り忘れに気付かずに庫内を全滅(氷は溶け、冷凍ストックは半溶)させる事が度々。新たなストレス発生に父との口論が増えてしまった。

夏を過ぎて遅かれながら野菜、冷凍室それぞれにもお知らせアラームを追加、冷蔵庫問題はとりあえず収束をみた。なお冷蔵庫へのアラーム取付はマグネット側でパッキン、閉め代等を調整しながら行う必要があり、その点は各自の事情で取り付けて欲しい。

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2024/10/03

母の介護のため、実家住まいに戻る(その5):親のかかりつけ医は重要

認知症の家族を持つ身として如何に初動が大事だと痛感する。認知症発覚までは母たちと同居していなかったので、顔を合わせた僅かな時間でそれを汲み取れるかが重要だった。ただ同居していた父でさえ、母の老化と認知症の区別が付かなかったくらいだから、所詮家族の判断だけでは難しいかもしれない。

そんな時、かかりつけ医の存在がクローズアップされてくる。母は月一、近所のかかりつけ医から血圧の薬を処方されてきた。問診もあるわけで医者と患者間で相応の会話がなければならない。しかし、だ。認知症発覚以前であっても母は難聴ゆえに会話するには相当な労力を要していた、はず。

問診なら体調の変化も聞いてくるだろうに、そのかかりつけ医はちゃんと聞きもしなかったと思う。血圧測って、時々血液検査して、お決まりの処方箋を出すだけ。その医者にとって後期高齢者は黙ってお金を持ってくるカモネギ、ズバリ格好のお客さん。昔、同じ医者の問診を受けたが、横柄で良い印象はない。

数年前、父に医者を変えたほうがいいと進言したが、「ご近所(への気遣い)だから」と拒否された。もしかかりつけ医を変えて、その医者が異変に気づいていれば…いや、そもそもその医者がちゃんと問診をしてくれていれば、と思う。

それを後悔した出来事がある。認知症発覚後、父から「(母の)歯医者をお前の行っているところに変えて欲しい」と頼まれ、母を連れて行った。すると入れ歯の清掃ができていないと歯医者からの指摘。そもそも歯医者に行くまで入れ歯の事は聞いてなかったし、アップになった歯茎の映像には精神的に大きな衝撃を受けた。

たぶん母は入れ歯を作った歯医者からメンテ、使用していくか説明を受けたはず。だが父でさえ、母が入れ歯を洗っている所を見た事が無かったという。元々難聴を理由にちゃんと話を聞かない母だったが、認知症の初期段階が重なったのも災い。父も母一人で遠くの歯医者に行っていると過信していた。

歯医者さんの提案で月一、歯茎の清掃する事になった。会社へ介護を理由に月二日から三日は早退を申し出ているが、今はさらに歯医者の予定も組み入れている。認知症の家族を持つ身としてはお医者さんに正しい情報を伝え、生活と症状軽減のために最善を尽くすしかない。

またそんな不満、後悔もあって両親共、信用のできる自分のかかりつけ医に変えました。また高齢のご家族を持つ方(特に遠方)には一度かかりつけ医の問診に付き添う事をお勧めします。

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2024/08/31

母の介護のため、実家住まいに戻る(その4):母の物忘れ悪化

父の負担を減らすため、昼と夜の食事を作る事にしている。夏になって土日のどちらかの昼は冷やし中華が定番となった。錦糸タマゴさえ作ってしまえば、後は食材を切って皿ごと昼まで冷蔵。昼直前に湯を沸かし、麺を茹で仕上げていく。我が家ではコープの冷やし中華がお気に入りだ。

そんな今日、突然母から「おじさん」と声を掛けられた。その時は笑いながら言っていたのですぐに冗談だとわかったのだが、その後に色々話す母の言葉に驚かされた。

「アンタが子供の頃(幼少期から学生時代まで)の記憶がない」「アレ、私アンタを自転車に乗せたっけ?」

正直、おじさんと言われるよりその方がショック。母親に自分の子供の記憶が無いと言われるなんて。本人曰くぽっかり空いているそう。さすがに大人になってからの記憶はあるというが、この先悪くなる事はあっても良くなる事は無い。ちなみに「孫は何処?」「学校へ通ってる」→当たり前だ。

私が「先月分より水道代が多くなってる。水に気を付けて」と諭すと、「わたしゃ知らない。何処の誰が使っているんだ?」と口にする。これって4ヶ月前に市の調査員が「泥棒のせい」に喰いついた事を思い出した。

しかも「私は認知症」と自称していたのに今は「私は認知症?」と自覚が無くなってきた様。これまで緩やかな悪化と思っていたが、今日一日で大きな変化を感じた。

さてここ一週間、台風のせいで買い物に悩まされる毎日。明日は作りだめできる中華丼のあん(昼はあんかけ焼きそば、夜は丼)でも作ろうかな。

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2024/06/16

「志村けんは正しい」母の介護のため、実家住まいに戻る(番外編1)

今日は番外編。父母とジェネレーションギャップはあるが、それ以上に困る事がある。話が通じないのだ。特に父。通じないというか中身が聴こえていない。だから話を振った時の第一声は「はぁーっ!」(「はぁ」は”は”と”へ”の中間)。それが物忘れ症状の無い父だから非常に困る。

ミライスピーカーのCMじゃないが、耳の聴き取り難さは高齢になる程高くなる。かくいう自分も加齢で聴き取り難いなぁと実感する事が多くなってきた。さらに30近く年上の父であるから、父本人の状況は想像に難くない。そんな父のリアクションは志村けんのひとみばあさんそのものだと気づいた。

改めて志村けんさんの観察力に驚かされる。笑いに重要な要素は共感。番組を観ていた当時はそんな事微塵も感じなかったけど、笑いの背景で高齢者に対するイメージが働いていた。ただ過去、所詮は対岸の火事。それが今、リアルに目の前で展開されている。

そんな話を妻に話したところ、笑いのツボに嵌ったようだ。妻のご両親は若くして亡くなったのでこの話は未経験。しかも(俺の記憶では確かひょうきん族でなく)ドリフ派だったのでどうにも可笑しかったらしい。改めて志村けんさんの影響力に驚かされる。

「人生は喜劇」とはチャップリン(いやシェイクスピアかも)の言葉だが、言い得て妙。「笑い」は全ての出来事を克服できないけど、克服のカギになり得るとは思っている。その気概だけは忘れないようにしたいなぁ。

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2024/06/13

母の介護のため、実家住まいに戻る(その3):介護をどのように進めるか

物忘れ外来の病院の先生から地域包括支援センターを紹介され、数日後に相談員の方と面談した。母の様子を診てもらう事、それを基に今後の進め方を考えていくのが主。一見、母はしっかりとしているようだが、問題は垣間見えていたようだ。相談員の話す選択肢にデイサービスの紹介もあったが、母の性格を知る父と俺は家に居たほうが良いと話した。

母の出来る家事は洗濯と皿洗い、料理は父がやっている。俺は買い物と病院の送迎が役目。生活の中で少ないながら母の役割はできている。今はそんな一日の流れは母本人もそれなりに理解しているよう。ただ深夜に片付けを始めてしまうところは昔から夜型の母の名残か。その辺の話もしておいた。

面談後、相談員の方と再度話を聞いたが、無理無理デイサービスを使い症状が悪化した人も居るという。その点で家族と過ごす事に同意してくれた。またこちらの事情を察し、介護認定の手続きを進めてもらう事にした。母の通院、対応に有給を潰していくのに限界がある。

数週間後、市の調査員が審査にやって来た。身体確認3割、対本人の認知症評価1割、家族からのヒアリング6割といったところ。認知症評価では「このテスト何回目?」とまるでクイズタイムショックのような問答もあったりした。ただ評価が難しければ、その割合は増えていったと思う。

本人を外しての家族からのヒアリングは、母の症状の聞き込みが中心。病院までの道を迷った件、貴訪のスーパーを覚えていなかったり….特に物が見つからなかった時、母が「泥棒のせい」(その可能性)にする発言に調査員が食い付いたのは、認知症の方ある種の共通性にあったからだろうかと勘繰った。

結果は市で協議し、連休明けに判るという。介護認定されればそれなりに選択肢は得られる訳で。会社内、一緒に仕事する面々に事情は話してあるが、その理解が無ければ母のために動くに動けない。認定が得られれば、会社の介護休暇も適宜利用してバランスを取りたいなと思う。

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2024/06/12

母の介護のため、実家住まいに戻る(その2):台所対策

実家暮らしに戻ってから最初の一ヶ月注力したのは日常生活の改善。自室があるとはいえ、身ひとつで戻ってきたために何も環境が整っていない。ただそれ以前に両親の住む家が半世紀以上とあまりに古く、食住のレベルは遥か、妻のマンションの比にない。特に酷いのは台所。

父は水道、電気工事の資格があるので自分でせっせと買い足し変更してきた。だが水回り、調理環境は雑然と自己流。さらにグリルと換気フードは設置後ノーメンテ。そこで水切りカゴ、スポンジ、洗剤置きと再構築から始まった。Amazonの履歴は台所グッズが並び、人生で毎日100均に通ったのは初めて。

台所はシンプル化を進め、まな板など場所をとるものは立てて置くようにスペース確保を狙った。100均グッズは採寸してみていけるものを買ったが、現実失敗も多い。打率6割かなぁ。なお無駄なスポンジ、たわしは捨てて置き場を集約。それでも母が捨てないので、目を離した隙に黙って処分する。

おかげで個人的に使い勝手は良くなったが、両親は同じ使い方をできない。何せ昭和初期生まれの彼らは自己流。酷い時は調理に使用済の菜箸をそのまま水切りカゴに置く始末。とにかく慣れてもらうのには時間が掛かる。特に母は症状のせいか難しい面はある。

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残るは汚れ落とし。換気フードは半日掛で手強かった。フードを大まかに分解、ネットの情報を参考に重曹水のスプレーのラップ巻きを繰り返し丁寧に油汚れを処理していく。それなりには綺麗になった。ただシミ状の冷蔵庫の汚れだけは何をやっても落ち無かった。数十年の蓄積ゆえ妥協は必要。

父は「やる事がないから」と台所での調理はお任せの中。これで多少、気分良く料理してもらえればいいなと思う。

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2024/05/06

母の介護(その1):介護の始まりと実家住まい再び

実は一ヶ月前から母の介護のために実家住まいとなった。以前母が眼科に通院の際、道に迷ったという話、同居する父の感じた違和感から、俺が同行して母にある病院の物忘れ外来を受診させた。冒頭、説明を受けた年相応と言われるCT画像が生々しい。さらに長谷川式と呼ばれる評価方法で9点の結果。アルツハイマー症、重症だと診断された。

俺はといえば結婚後は妻のマンションに住居を移し、世間で言われるマスオさん状態だった。あれから15余年の間、実家は朝晩寄って出勤するのがパターン。だからほぼ毎日両親と会っていたし、状況もわかっていたつもり。その中で両親の老いは感じていたが、まさかそこまで進んでいたとは…

生活拠点を実家に戻して数週間、通院や様々な手続きのために一緒に行動すると、母の老いに留まらない変化を知る事になる。耳が遠いのは判っていたが、テレビの文字(奄美大島とか)を読めなくなったり、時計を読む時に苦労したり。ちょっと前なら難なくこなした事ができなくなっていた。

物忘れ外来の後、様々な病院で受診の際、俺が実家で介護すると話すと異口同音に「それがいい」と声掛けられた。ウイークデイ日中は父に任せて仕事へ行き、週末に数時間妻のマンションへ戻る事があるが、それ以外は実家で過ごす。毎日仕事帰りにスーパーで買い物が通例となった。

進学した子供の事は妻に任せ、両親の事に専念も父と手分けしてやる事だらけ。自分の部屋に戻ると唖然、無法地帯。こりゃ片付けもしなければならない。むしろこれを機にオレ自身の終活を始めなければと。

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