「家族を想うとき」を観る
イギリスの社会派ケン・ローチ監督の「家族を想うとき」を観てきた。原題は「Sorry We Missed You」と宅配の不在票を表す。
元建築土木労働者のリッキーは介護業の妻アビー、セバとライザ兄妹の4人家族。仕事を求め、宅配業を始める事になった。だが契約はフランチャイズ、配達用の車は自分で用意。しかも長時間労働を強いられる。何とか仕事を頑張るリッキーを、アビーはセバの学校からの呼び出しを伝えるのだが。
邦題「家族を想うとき」は言い得て妙。むしろ「家族を想うとき(時間)が無い」というのが映画的直訳。生活苦にリッキー、アビーは追い込まれ、お互いの支えさえ苦痛となっていく。
しかも家族を想う暇は怪我でもしないと与えられない、いやそれさえ許されない。そんなリッキーの姿を映し、監督は我々に問い掛けてくる。
80歳を超えるのにケン・ローチの鋭い視点、切り口に驚かされる。デバイスによる縛り、徹底管理された宅配業、フランチャイズゆえの厳しい罰則。「家族を想うとき(時間)が無い」のは当然。「わたしは、ダニエル・ブレイク」同様、物語の背景やセリフはリアリティに溢れる。
一方、象徴的にiPhoneの着信音(デフォルト)が使われるが、家族さえデバイスに縛られた感すらある。しかも家族の団欒は奪われ、お互いの誤解を産んでいく。
この作品を観て思う事は多い。ある意味、観客の鏡でもある。できる事、少しでもあるはず。本作最後、子供たちからリッキーに掛けられるセリフが象徴的。リッキーにその姿を重ね、どうすべきか考えたい。家族の姿、今一度考えるための作品だ。
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