「15時17分、パリ行き」を観る
今夜はクリント・イーストウッド監督最新作「15時17分、パリ行き」を観てきた。
2015年に発生したタリス銃乱射事件を描く”実験作"。なぜ、”実験作”なのか。それは主人公3人を当事者に演じさせたからだ。イーストウッドは過去の監督作「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」と史実物を作ってきている。しかしこれまでは俳優あっての作品。果たして吉と出たか。
かつて北野武とイーストウッド作品の共通性を述べた事がある。本作は例えるならイーストウッド版の「その男、凶暴につき」だ。ただ別に我妻刑事が出てくる訳ではない。作品の描く日常の中の狂気が「その男、凶暴につき」と重なるのだ。
銃を構えるテロリストに、凍りついたように変貌する車内。飛び掛かるストーンたち。その後の出来事はまさにそれ。この部分をイーストウッドは作りたかったのかと勝手に思う。眠気が飛ぶ程とここでの描写は凄い。これぞ本人たちに演じさせる、イーストウッドの凄み、87歳の創作意欲に感嘆する。
ただ反面、俳優でない者を使うデメリットも感じる。子役が演じる導入部、主人公3人が冷遇された時代、彼らの葛藤が描かれていく。人生の動機として重要な位置付けとなる構成だ。そして若者となり、人のためになろうと軍人を目指すストーンたち。ここからは本人たちが演じるのだが、本作のきっかけとなるヨーロッパ滞在が何とも退屈。事実から逸脱できず、派手な演出も出来ない。
正直、ローマのエピソードでは睡魔に襲われた。
それでもこの作品は94分と短い。もし少しでも10分、いや5分でも短かったら大傑作になったかもしれない。ただイーストウッドの真意、それが日常の中の狂気だとしたら、その対比のために残したのかも。本作を英雄礼賛と思うなかれ。そして我々の身近に同様の危険、勇気が求められる瞬間に出会う、そんな問題提起とも思えるのだ。
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